エリカの病気
エリカは翌朝だるそうだった.いつもからそう活発に動くわけではないけれど、今日は動きが鈍くてソファにすわったきり,立ち上がれずにぐったり寄りかかった.エリカには顔色というものはない.口から息もしていない.が,エリカの額に手をやったら、熱かった.熱があるのだ.明らかに病気だ.ボクは考えた.エリカは女の子の人形だけど、中には人が入っている.その人が病気なんだ.エリカ人形を脱がせてあげて、病院へ連れて行ってあげるべきでは?エリカの顔を見ていたら、いきなりエリカはボクのクビに抱きついてきて,首を横に振った.ボクのココロを読んでいたようだ.エリカはボクの目の前では死んでも人形のままでいるつもりらしい.燃えるように体が熱い.相当熱があるんだろう.そんな体でエリカはボクの体にしがみついてはなれない.普通なら息も荒くなるところだが、エリカは口から息をしていない.息遣いも聞こえない.そう,エリカからは息の音がしない.だから,人間らしくないんだ.でも,どうやって息をしている?
ふとエリカの力が抜けた.気を失ったのだ.ボクは華奢なエリカの体を抱き上げると,ベッドを延べてそこに横たえた.エリカは息をいていない.体が熱いままなので、死んではいないと思うが.心臓に耳を当てた.心臓の音がして生きていることはわかった.しかし放置できる状況ではない.その日はボクは会社を休んだ.
エリカを楽にしてあげたかった.やっぱりボクはエリカ人形の着ぐるみを脱がせてあげることにした.それまでボクはエリカ人形をウルトラマンのスーツのように考えていた.エリカは着替えるところはボクに見せてくれない.だから,エリカの裸を見たことはないけれど、きょうだけはいいだろう.ボクはエリカ人形を脱がせてあげることにした.上半身を抱えあげ、すっぽりとかぶるタイプのパジャマの腕を抜いて,脱がせた.その下に、なんていうんだろう、女の子の下着(スリットかな)を着ていたので、それも脱がせた.起きたばっかりだから、もちろんブラジャーはしてなかった.エリカの上半身の裸が目の前にあらわになった.
パジャマを脱がせてボクはビックリした.背中にファスナーはなかった.もちろん,ゴムというか、何かの作り物の皮膚なのだが、背中に切れ目やジッパーや貼った跡はなかった.ボクはエリカの上半身を裸のまま、布団に仰向けに寝せて、とっくりと眺めた.上半身に皮膚の切れ目はどこにもなかった.もちろん,肩のあたりとか、首のあたりに「ゴムの継ぎ目」はある.しかし,これは一体化していて、ここから脱がすことはできない.どこまでも滑らかで柔らかな人工皮膚がそこにあった.おなかから胸元、胸元からクビ、頭、生え際に至るまで、エリカを至近距離からじっくり見たが、切れ目のない人工皮膚で覆われた1つの物体だった.例えようもなくそれは美しかった.エリカは普段から口で息をしていないので,息が苦しいのかちっとも分からない.でも,ボクにはエリカ人形を脱がすことができない状態で呆然としていた.下半身もパジャマを脱がせば、あるいは皮膚の切れ目があるのかもしれなかったが、エリカの服を全部脱がすことはエリカの世界を侵すような気がしてできなかった.(だいたい,腰から上に切れ目がなかったら普通、脱げないよ.)
ちょっと心配になったことがある.エリカの中に入っている人は、多分チューブかなんかで息をしていると思うんだけど、気を失ってしまって呼吸困難にならないのかな.このまま,死んでしまうことはないのかな.といっても,エリカ人形の着ぐるみを脱がせられない以上、どうしようもなかった.
とにかく,コンビニへいって氷を買ってきて、氷嚢を作ってあげてエリカの額にあててあげた.ボクがコンビニから帰ってきてもエリカはまだじっと寝たままだったが,相変わらず体は火のように熱かった.
ボクは心配で胸がはちきれそうだった.でも,言っておくけど,エリカが死んでエリカ人形との同棲に後ろ指を差されることを心配したんじゃない.エリカは人形で、中には誰か知らない人が入っているんだろうけど、ボクにとってエリカは生きた女の子だし、だんぜん死ぬなんて考えたくなかった.
午前10時くらい.ふと,エリカは目を覚ましたようだ.これまで目を見開いたまま完全な物体と化していたエリカ人形に意識が戻ったようだ.首を少し動かした.ボクが心配そうに覗き込んでいるのが分かったらしい.反射的に手を伸ばして何か言おうとしたが、自分がエリカ人形であることに気づいたらしく、慌てて両手で口をふさいだ.どうしてそこまで中に入っている人は声を出さないのか理解できないが、布団から手の力だけで這い出し、パソコンの前にしがみつくように座った.ひどく時間がかかった.そして弱々しくタイプした.
「***さん,会社は?」
ボクは答えた.
「休みを取ったよ.エリカ,大丈夫?」
エリカはせきを切ったようにタイプした.
「ごめん!ホントごめん!お願いだから訳を聞かずに会社へ行って!一生のお願い!」
ボクは病気になってもゼッタイに素顔を見せようとしない彼女(中に入っている人)に驚いたが、自分がこうして家に居座りつづけることがエリカを追い詰めるような直感があったから、すぐに仕度をした.しかし,気を失うほどの病気なのに,水を飲むことさえできない「中の人」の苦痛は言葉では言い表せないと思う.
「じゃ,出かける.しっかりしてね、エリカ.」
エリカは弱々しく手を振った.ボクがドアを出ると,すぐさまガチャンと中から鍵をかける音が聞こえた.
今日は残業があった.サービス残業なんて茶飯事だから仕方ない.メールでエリカに「残業で帰りは10時.ごめんね」と送った.(そうそう,エリカのケータイの番号は教えてもらっておいたんだ.)エリカには鍵が渡してあるし、これで多分中の人はゆっくり休めるんじゃないかな、と思った.
ボクの思ったとおりだった.ボクが帰宅するとエリカはパジャマのままだったけれど、ずっと元気になっていた.エリカがボクのマンションへ来てから、3日くらいたつけど、その間、本当に何も食べていなかったのかもしれない.水くらいは飲んだのかな.今日は、自分で外出して何かを食べてきて、そして寝たに違いないよ.エリカと住みつづけるためには、ボクがエリカのことを理解してあげなければ,エリカを死へと追い詰めてしまうことが痛いほど分かった一日だった.ボクはエリカに「よく寝た?」と聞いた.エリカはコクリとうなずいた「具合もよくなった?」エリカはまたコクリとうなずいた.
エリカはパソコンに向かってタイプした.
「エリカのことわかってくれてホントありがとう.デモね、エリカ,これからはもっとちゃんとできるようにするね.心配かけたね.」
どうやらエリカは、ボクがわざと帰宅を遅らせたものと勘違いしたようだ.ま,しかしこれで,エリカは中に人が入っていることを間接的にだけど自分で認めたことになるし,エリカのためにいい事をしたと思うと,ボクはちょっとご機嫌だった.
でもちょっとだけ驚いたことがあった.やっぱりというべきかも知れないけど.昼間の間、エリカが何かをした形跡が全くないのだ.食事をしたゴミとか、シャワーを使った痕とか、ぜんぜんないんだ.トイレくらい使ったかもしれないが、これは跡が残らない.エリカの中に入っている人の「人形の役になりきる」という役者根性には本当に頭が下がる.それとも,本当に何も食べていないのかな、と錯覚してしまうところだ.
エリカは「もっとちゃんとできるようにするね」と言ったけれど、よく考えると,「もっと完璧に人形の演技をするね.」という意味のようにも思われる.ボクのすぐ脇にいるあどけない少女なのに、とても遠い世界の人のようにも思えた.
ボクが会社から帰ってから翌朝でかけるまでの約9時間、もはやエリカは苦しい様子を見せることはなかった.そればかりか,こんなことまで見せてくれた.
エリカはパソコンに続けてタイプした.
「***さん,エリカが倒れちゃっている間,息できないんじゃないかと心配してくれた?でもね,エリカ息してないんだよ.証拠見せてあげる.」
ボクはエッっと思った.そりゃあ,中に人が入っているんだから,呼吸できなくなりはしないかと心配してたのは本当だけど,「証拠を見せてくれる」というのはどういうことだろう?急にボクの心臓は高鳴り始めた.
エリカは台所から大きな半透明のゴミ袋と,それから自分のバンダナを持ってきた.ゴミ袋は70リットルの大きなヤツだ.
「じゃ,説明するね,今から,エリカはこの袋を頭からかぶります.でね,***さん,エリカの首のところをバンダナでギュッと縛ってくれる?それから,この袋の端が腰のあたりまで来るでしょう?そこを手でギュッと押さえてくれる?紐で縛っても大丈夫なんだけど.」
ええええーーっ.そんなことしたら,息できないよ.ずっとそうしてたら普通死んじゃうよ.
「ボク,やりたくないよ.だって,人殺ししたくないもん.」
エリカは自分で立ち上がると,ふわっとゴミ袋を自分でかぶってしまった.このときはエリカはいつものパジャマを着ていたけれど,その上からゴミ袋をかぶってしまった.そして自分で(袋の外側から)首の周りをバンダナでぎゅっと結んでしまった.そしてそして,袋を腰のあたりまで下ろして,ボクのほうを向いた.
ボクは見るだけで自分が息苦しくなるのを感じた.
「エリカちゃん!はやく脱ぎなさい.死んじゃうよ.」
エリカは動揺するボクを尻目に手でOKの印を作って平気にしている.ボクは目を疑った.ボクの目の前には上半身を袋詰めされたエリカが立っているのだが,まるでそれが本当の人形が梱包されているような錯覚に陥ったからだ.まるで箱に詰められていた人形が自分から起き上がったような感じがした.
どうして急にそんな風に思ったかというと,エリカが(自分でも言うとおり)呼吸をしていないからなのだ.普通ボクが袋をかぶって首のところを縛れば,呼吸するにしたがって袋が膨らんだりひしゃげたりするものだが(息を完全に止めない限り誰がやってもこうなる),今,ボクの目の前にいるエリカにはそれがないのだ.袋は「物体」を梱包したかのごとくじっとしている.エリカの呼吸の証拠は全く見られない.
しかし...しかし,エリカ人形の中には人が入っているって,今納得したばかりだし,どんな手品が使われているかは分からないが,とにかく,何かトリックがあるに違いなかった.現実に呼吸をしていない人形が目の前に立ってこちらに手を振っているのを見るのはなんとも奇妙なことだった.だぶだぶのパジャマを着た等身大人形が袋詰めにされたままボクに手を振っているとは!
ボクは「降参するから,はやく袋を取りなさい.」と言うのが精一杯だった.エリカは体を大きく揺すってうれしさを表現すると,袋をはずさずにそのままパソコンに向かった.
「***さん,私が本当に,ほんっとーーーに人形だって,納得してくれた?」
ボクは答える代わりに手を「もういいよ」みたいな感じで振った.
「怒った?ごめんね.」エリカはパソコンにタイプした.
「ちょっとね.でもいいよ.二度とこんな危ない真似しないでね.」
エリカはこくりとうなづくとテレビのスイッチを入れた.そして袋を脱いだ.袋を頭からかぶっていても,そうしていなくともまるで関係ないようだった.窒息というトラブルは全くなかったのだ.
あとはボクと一緒にテレビを見,一緒に手をつないで寝て、そして朝起きたらボクのためにトーストとミルクを用意してくれた.買ってあげたゴム手袋は,炊事をするときに使うものだった.今日は夕飯を作ってくれるという.夕飯を楽しみにしながら、ボクは新婚気分で会社に出かけた.
(第7話に続く)
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