|
その研究者は有名であった。
老化に関する幾つかの重要な発見と、それに続くアンチエイジングに目に見えて効果のある治療法の数々。
常に控えめで、風貌と生活ぶりだけからすれば、その辺の冴えないサラリーマンと大きく変わらなかった。
彼と接して、野心と飾りっ気を感じたものは、恐らく誰もいなかっただろう。
尤も、彼が人と関わりを持つことに消極的だったから、そのサンプル数はあまり多くないのだが。
彼の唯一の大きな買い物は、たった一人の研究者の為に使うには不釣合いな大きさの自宅兼、研究所だった。
十分に静かな環境で、誰にも邪魔されずに、仕事を進めたいのだと、思われた。
実際、論文数は目に見えて増えたものだから、名声はますます上昇していったのだ。
それを羨む研究者は多いが、だからといって、彼に敵うと思われる研究者もそれほど多く存在するまい。
「君は外科医として、必要十分な技術を持っているし、その上、人を救おうという使命感を一切感じさせない。しかし、さりとて、お金が欲しいという風には見えない。同時に、名を上げたいなどとも思っていないだろう。だから、私は君に、この扉の先を見せたいと思う。」
遠い昔、中学か高校生の頃に、使命感と野心について似たような言葉を耳にした覚えがある。当時は褒めていると感じ、大人になってからはひどい皮肉だと思っていたが、あまりにも唐突な話は、その言葉の受容を一気に遡らせた。
当時、それが何者によって、そしていかなる文脈でもたらされたのか、全く思い出せないが、あの瞬間と似たような匂いが、この瞬間もしているのだと焼き付けられた。
「それを見た以上、君はこの扉の先を含めて、一切この建物を相続しなければならなくなるけれど、結構かね?」
決して熱っぽい言葉ではないが、さりとて、薄ら寒さも感じさせない。いや、一切の印象も無く、その数分は過ぎ去っていたような気がした。
思い返しても、自分を外側から見ていたような記憶しかない。何も考えてはいなかった。
まるで、何度も見て分かりきったシナリオの映画を見ていたようなものだ。映画を見ている自分という記憶だ。
白日夢は終了した。扉は開かれていた。
あの日から、日はいくらか隔たっていた。彼とこの部屋をともにするのは、これが最後だ。
志願者が横たわっている。極めて深い眠りである。巷では臨死体験などというが、それよりも脳の活動が低い。
ぬくもりの消えた躰、遅い心臓の鼓動。冬眠状態というには早計である。薬によって、身体の機能をひとつずつ落としているのだから。
生物を非生物に近づける作業が始まる。
血液を人工の血液様の別のものに入れ替える。そして、外部の心肺装置に繋ぎ、心臓と肺が不要となる。
栄養もここに含まれるので、消化器も不要となる。
ミイラを作るとき、腐敗しやすい内臓の部分を先に取り去るのと同じである。脳を除いては。
扉の先は、案外早く秘密の部屋につながっている。
拍子抜けした様子を察してか、「普段から行く部屋をそんなに不便には出来ないよ。」と笑った。
彼はそうそう建物の外には出ないし、外の人はそうそう建物の中に入ってこないのだ。建物の中を厳重にする事は意味はないのだ。
部屋といっても、前途にあるのは幅4mほどの廊下だけだ。そこを部屋としているのは、ガラスで仕切られた6畳ほどの部屋がずらっと並んでいる。
部屋はいわば、人形の家を想像すればいいだろう。ベッドと家具がかわいい飾り付けが為されているが、全く生活観を感じさせない。
「人形ですか?」
中にいるそれを、さらりと言ってみたものの、それが全く人形などではないということは、理性に於いても本能に於いても、完璧と言える正確さで知ることが出来た。
前者は、こうした建物の中にあってそんなものであるはずがないこと、後者はその視線と空気において、全くの無生物ではないということ。
血の気の失せた皮膚は、その彩りを更に消していくこととなる。
これより数ヶ月掛けて、一つ一つのパーツが置き換わっていく。
眼球は細密な素子を組み込んだ人造石英に、歯や爪、骨格はセラミックスに、しかし、そうはあっても、サイボーグを作るのが目的ではない。
サイボーグに求められるのは、とにかく生きていることだ。しかし、われわれが求めているのは、とにかく生きないことである。生物学的な意味に於いて。
「意識はある。かつて、健常であった。死体ではなく人間である。しかし、生きてはいない。」
「禅問答ですね?」
とやり返したつもりだが、尖塔性の視線を浴びると、口を吐いて出た先から、納得に変えられてしまった。
彼は、そこまで見通したように、口元をほころばせた。
彼らは死を望んだ。消極的に。否、積極的に生きないことを求めた。
苦悶の表情を浮かべたまま老いるのは悲劇だ。だから、私は彼らの時間を止めた。
「人は、生きてさえいれば、いかなる状況だとしても、死んでしまうことよりも素晴らしいと言う。しかし、死んでしまった人間が、これに対する反論が出来るだろうか?
この議論は構造的にアンフェアなんだよ。
私は生きている。だから、私は死ぬことを否定して生きている。しかし、生きるということはいつか死ぬということだ。
求めれば、彼らには新しい人生を用意することも出来る。しかし、それを望む者が今のところ出てきていないということは、まだ彼らには、その徴が降りて来ていないのだろう。」
「徴とは?」
「然りと言うことだ。ただし、希望というものではない。」
感極まっているのは感じられた。それこそ、彼にとっての、望む時だったのか。
暗い廊下。部屋の中の光が漏れるが、床に吸収される。
ガラスは灰色がかっている。金属が蒸着してあるのだろう、中はマジックミラーか。
自らを観察して、彼女らは何を思う。
ここからは、妙技に近い。筋肉は筋肉のあるように、脂肪は脂肪のあるように。一度解いた糸をもう一度編みなおしていく。
以前の言葉を思い出す。
「自然は、自然のようにしておくと、最も美しい姿になるんだよ。」
再組織化は水槽の中で、それはゆっくりと進行する。これが数日もすると、黄金比を感じさせるシルエットは完成する。
その間も、彼は夢見ぬ眠りを続けるのだ。
部屋に入った。さすがに、全てを捨てて、一つを選ばなかった者の部屋である。室温以下の冷感が胃と腸を駆けた。
人形はベッドに座っている。視線は、完全にはずれているのに、そして、他の部屋からはこの中は覗き見れないのに、百の視点が私にまとわり付いた。
目の前には、人形。ただそれだけである。
目は見えているし、限定的ながら自らの足で歩くことも出来る。
しかし、完璧に動かない。呼吸も、鼓動もない。微動だにしない。
手に触れてみる。首筋をなぞってみる。顔を寄せてみる。
何もないのだ。「何かがいる感」がないのだ。気配はある。しかし、生き物のそれとは違うのだ。
最後に皮膚。
血の気があってはならないが、死体のようではならない。
絹のような細かさと、皮膚のような可撓性。透けるような皮膚の色は、生き物を予感させないにしても、死体を連想はさせない。
生分解しない微細構造を持つ繊維で編み上げられた皮膚の土台として、コンホメーションを制御したコラーゲンを生産する細胞。求められる厚さと密度は部位によって異なる。それぞれの係数もまた、求められるがまま積層していくのだ。
果たして、一体の人形が出来上がる。
精巧に作られた人のようなもののように作られた人である。そして、形そのものは、まさに望まれたシルエットが、しかし、一切の温もりを外に輻射せず、ひとつの思考装置と化すのだ。
思考装置。彼女たちは、思索の世界を駆け巡っている。このかわいらしい部屋のことなど、意に介していないだろう。
私の触れた感覚は、確実に脳に伝えられているという。しかし、それを精神は受け入れていないだろう。
30時間前後とはいえ、背中に繋がれ、外部に設けられた「内臓」からその身を解き放つことは自由だ。
鍵も掛けられていない。彼女は彼女の意志で、外に飛び出すことも出来るだろう。
一日中、否、この姿になって、一度も動かないものもいるだろう。居心地の問題ではない。動こうとしないのだ。
培養液の水槽の水を抜き、乾燥させる。
皮膚が弾力を生み、ふやけた人の皮膚らしい皮膚から、人工物らしい皮膚へと変化していく。
体を縮め、華奢に作り、そして、胸部にあったものはほとんど綿のようなものに置き換えられ、その上、体内の水分も随分と減っている。
躰は恐ろしく軽い。
そっと、床に立たせる。
自立する。
手を繋ぎ、ぎこちない脚運びで、共に歩いていく。彼女の部屋へ。
「彼女がまだ、生きていた頃、それこそ、禅問答したんだ。」
隣に座り、恍惚にも似た思索の彼方から、私は出し抜けに連れ戻された。
「種々の生物が、その時代時代に、そして環境毎に、最も適した形に作り上げていく。
いわば、ダイナミックに変化する地形に対して、必死で高地を目指していくような。
ナウマン象が今の時代に生きられないのと同様に、アフリカ象がかの時代に生きられない。
人間の精神も、それぞれの時代に適したものと、そうでないものがある。進化論が、生きとし生けるもの全てに平等ならば、それを否定するヒューマニズムは何だと。
それに全面的に同意していたら、今の私は居ないだろうね。
きっと、どこかの病院で、毒を幾人にも盛って、刑務所か絞首台に行っていただろう。」
全面的に同意できないのは、また自分も同じであったし、むしろ、先の会話でこれはお互い納得済みではないのか。
「それは彼女に言い聞かせるために言っているのですか?」
「私は自分の意見に沿わぬ者に復讐するほど人を妬まないよ。」
「何をおっしゃりたいのかよくわかりませんが。」
「どうして彼女がそのような考えに囚われたのか怪しんだものだが、気付くと、どうしたら、彼女がそのような考えに囚われずに済んだかを考えてしまっている。
恐ろしいとは思わないが、思わないことが恐ろしい。
ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように・・・。」
「彼女が今、何かを口にするとすれば、それを逆に言っているかもしれませんね。」
彼は顔を赤らめ苦笑いした。
恐らく、自身が自身に正直者であることに自負を感じて生きて来ただろう。故に、こうしたあまりにもあからさまな自己欺瞞は真綿で首を吊っているようなものだっただろう。
「あなたは、私にそれを喝破されんが為に私をこの部屋に招いたわけではないでしょう。」
「意地の悪い男だ。やはり、私はあなたを選んでよかった。
君も私がどうしたいかわかっているだろう。」
「覚悟はなされていませんね。
まだ、礎は埋没していないように思えます。」
「そうだ。しかし、山が雨風に削られて次第に低くなっていくように、私の宮殿がその下に埋没するのは避けがたい。」
「なるほど。」
私は、あれから、その時が来るまで、一体何人の希望者と同じ問答をするだろうか。
彼は消え、彼女がその部屋にいる。
しかし、思うのだ。
地形が自らの足下にそそり立つのを待つよりも、自らがそこへ上らないのか。
こうした考えも、土砂に埋もれていってしまうのか。
しばらく、あの部屋部屋に近づくことが出来ない。
|
|